12月14日(木)村上春樹訳『グレート・ギャツビー』を読んで
村上春樹の新訳『グレート・ギャツビー』を読んだ。訳者が、この翻訳にひとかたならぬ情熱を傾けていることは、巻末に載せられた長い解説というのか、あとがきというのか、それを読んでみるとよくわかる。翻訳家としてのすべてがそこにかかっているらしい。そして、訳者は、『グレート・ギャツビー』を文学の最高峰に位置づけている。その評価が一般的なものなのかはわからないが、この翻訳が他とは比べられない特別なものだということなのだろう。
そうした情熱はわかるにしても、では、今回の翻訳自体から、そうしたことが伝わってくるかと言えば、必ずしもそうではない気がする。訳者は、現代の物語として翻訳を試みたというが、使われている訳語が意外なほど古めかしい。要するに、訳者の力が入っている分、堅いのだ。その堅さが、ちょっと気になる。ようやく、最後の方になって、堅さがだいぶほぐれているなという感じもあるけれど、それが文章からスピード感を奪っているように思える。私は、『グレート・ギャツビー』を原書で読んでいないので、正確なことは判断できないが、訳者が強調している、その文学世界が放っている特別な感覚というものを、読者としてうまくつかめなかった。
私にも翻訳家としての自負はある。これまで、いくつも本を翻訳してきたし、その際には、自分の著書以上に力を注いできたところがある。けっこう自信もあるし、たんに学者として、研究者として翻訳しているだけではないという思いもある。それに、自分の文章力を鍛え上げる上で、翻訳に携わったことがとても大きかったとも思っている。別の人間の書いた文章を、なるたけ忠実に違う言語に置き換えるという作業は、間違いなく文章力を向上させてくれる。だから、他人の翻訳が気になる。それがいやなときは、時間がかかっても原書を読むようにしている。翻訳家ということでは、世界の村上春樹と張り合ってみたいとも思う。
アメリカの文学というものが、相当に高いレベルにあることは認識している。大学の学部(大学院だったかもしれない)の授業で、大橋健三郎氏のアメリカ文学の授業を通して、かなり学んだ。一時読んでいたフォークナーなどは、やはり巨人だと思う。フィッツジェラルドの作品も、そうしたアメリカ文学のなかで、独特の位置を保っていることだろう。なんだか、その意味で、今回の村上訳はもどかしかった。訳者として伝えようとしていることと、実際の訳文とが乖離しているように思えたからだ。それだけ、翻訳は難しいということだろう。一度、原書を読んでみなければならないように思う。
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