4月8日(日)もっと新しい選挙に臨むやり方があってもいい
仕事は完全に休みだが、先日『宗教と現代がわかる本』で対談した伊東さんから、『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』を送った礼と感想をいただいた。私信なので詳しくは述べないが、中沢氏が東大の駒場の助教授に就任するはずだったのが、教授会の反対でだめになったいわゆる「駒場騒動」との関連をしてきしておられた。たしかに、この出来事は1988年のことで、坂本弁護士事件、つまりはオウム真理教が世間に知られるようになる前の年のことだった。私の本のなかでは、東大一家の三世としての中沢氏について言及しているけれど、その点ではたしかに重要な出来事だったかもしれない。この点は、もう少し考えてみる必要があるだろう。
夕方、投票に行く。今回は、あまり投票したい候補者がいなかったが、入院したときに、病院で投票をして以来、基本的に選挙には行くことに決めているので、投票だけはした。投票が終わると、すぐに石原知事の再選が決まった。あっけない。ただ、これはあくまで勘にすぎないけれど、石原知事は人気を満了しないのではないかという気がする。そうなると、知事選が統一地方選からはずれて行われる可能性がある。
民主党が応援する浅野元宮城県知事が負けるのも当然だろう。寸前まで都知事になろうとしてないに人間に、都政について確固としたビジョンがあるとは思えない。そこが、都民の支持を得られなかった最大の原因ではないか。もう、政党が候補者を決め、それで選挙に臨むというやりかた自体、古く通用しなくなっている。だから、今回は再選なので違うが、政党からの支持や推薦を受けない候補者の方が強い原因だろう。
無党派が最大の票田だとすれば、この無党派を基盤にして候補が生まれる仕組みを考える必要があるのではないか。都政の何が問題で、どういった方向性で臨めばいいのか、客観的な立場から検討し、そのなかから政策を打ち出していくような場が出来て、候補者はそれに賛同して選挙に出るというやり方もある気がする。簡単に言えば、マニフェストが先にあって、候補が後からくるというやり方だ。公明党の本を書いていると、政党というものについて考えないわけにはいかないが、従来の政党では通用しない時代がきていることは間違いないだろう。政党に頼らない政治のあり方を考えないと、現実には対応できない気がする。
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はじめまして。「経堂日記」日々拝読しております。
あの東大の騒動については西部さんの関連本を読んだだけですが。問題の所在は中沢氏そのものよりも、やはり東大の教員達や大学にあったと考えるべきではないのでしょうか。
Posted by: 小金明 | April 08, 2007 09:52 PM
もちろん。騒動の原因ということでは、東大の教官の側の問題でしょう。それは、自分がそういう世界のなかにいて感じるところでもあります。
ただ、中沢氏が、その騒動を経験して、どういった思いを抱くようになったのかということは別にあると思います。過度にそれを重視する必要はないと思いますが、まったくその後に影響がなかったとは言えないでしょう。それを確かめるには、改めて検証の作業が必要かもしれません。
Posted by: 島田 | April 11, 2007 12:43 PM
なるほど。ただ、大学ないし大学教員の閉鎖的体質が明るみに出たあの騒動を、日本の学術や高等教育全体が内包する問題を考える上での、象徴的事件として観るのなら、分析をする事にも社会的な意義が生じるかと思います。
しかし中沢氏個人が、あの騒動を通じてどのような内面的な葛藤や思いを抱いて今日に至ったのかと言う点では、しょせん同氏の個人的な問題の域を出ず、第三者がそれを「検証」する事に、たいして意味があるとは思えないのですが。
Posted by: 小金明 | April 12, 2007 02:12 PM