10月26日(日)小幡さんのブログに刺激されて神というバブルの崩壊に思いをはせる
朝、渋谷の文化村へ。木下さんお勧めの「ミレイ展」に行く。ミレイといえば、「オフィーリア」だが、ほかにどんな絵を描いているかまったく知らなかった。最終日ということで、かなり混んでいて、なかなか入場できなかったが、場内は案外すいていた。作品としては、オフィーリア以降の1850年台から60年代までのものがいい。その後は、金が儲かり、肖像画の仕事が殺到したというが、そうなると絵に力はなくなっている。そこが難しいところだが、どこを見ているかわからない女性たちの視線が、独特な気がした。それはどこからくるのか。そこが興味深い。
そこからライブラリーへ行く。インターネットに接続して小幡さんのブログを見ると、私が昨日書いたことに反論が書かれていた。それを見て、かなり刺激されたが、どうも事態は、より大きなスケールの出来事なのかもしれないと思った。
ちょうど今読んでいる水野和夫さん『虚構の景気回復』のなかに、中世から近世への転換の原動力になったものが、グーテンベルグの活版印刷技術とルターの宗教改革だと指摘されていた。これはきわめて重要な指摘で、キリスト教世界は宗教改革を経て大きく変わった。ルターが批判したように、当時の教会は、免罪符を出すなど、神に代わって地上での救済を代行し、社会的な権力を確立していた。ところが、ルターの宗教改革からはじまるプロテスタントの教学においては、神そのものが再び表に表れ、救済はすべて神にゆだねられることになった。ルターに続くカルバンの「予定説」などは、まさに神の絶対的な優位を示す神学思想だといえる。
一神教の世界では、神の絶対性が主張されるが、実は、本当の意味で神の超越性が強調されるようになったのは、プロテスタントが勃興して以降のことだ。そして、アダム・スミスに由来する「神の見えざる手」という考え方を生むことになる。スミス自体は、それを格別重視してはいなかったが、近代経済学が発展するなかで、それは市場万能主義、市場至上主義という形をとっていくことになった。ケインズは、そこに危機感を抱いたわけだが、近代経済学の全体の流れは、スミス的で、それが最終的にアメリカ的な市場優位の考え方に結びついた。
そのように考えると、キリスト教世界において神が至上の価値を獲得するのは、むしろ近代に入ってからということになる。ならば、今回の金融恐慌のような事態は、市場の至上性に対して根本的な疑問を投げかけることになったわけで、それは突き詰めていけば、神という存在の完全な無力化を意味していることになる。簡単に言えば、市場が機能しなくなることで、神は死んだのである。
すでに「神の死の」はニーチェによって宣言されているわけだが、それでも神は市場という形で生き残っていた。今回、それが根底から崩れたとすれば、私は宗教学者として最終的な神の死を宣言しなければならないのかもしれない。市場を自動的にコントロールする神という存在の力自体が、あるいはバブルだったのではないか。神というバブルの崩壊。近代の終焉という意味は、そこにあるのかもしれない。
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