5月31日(木)明日はいよいよ手術
入院生活8日目。というか、手術前日。ようやく本番ムードになってきた。今回は、ソケイヘルニアという格別珍しくも難しくもない病気なので特にそう感じるが、病気を治すというより、人体を修理に出している感じがする。予定もすべて決まっているし、すべてがルーチン化されている。
それでも、とりあえず仕事を続ける。キリスト教の本、キリスト教は本当に一神教なのかを考える章を書き上げる。これで、ほぼ半分が終わったことになるが、このままいくと少し多くなりすぎるかもしれない。その調節が必要そう。
夕方には、高校の同級生渡辺氏が見舞いに来てくれる。彼自身、ポリープをとったばかりとのこと。お互い、この年代になると病院のお世話になることがどうしても多くなる。
夕食は、明日が手術ということなのだろう、通常食の「常食」。豚肉の生姜焼きだった。これを前の入院の時には食べていたことになる。夜薬を飲んでからは、水も飲めない。いよいよ明日は手術だ。
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Comments
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「神も仏も大好きな日本人」を読みました。
神仏習合に関してはなるほどなと思いつつも、誤解されている部分もあり気になったので書かせていただきます。
肝心の誤解されていると感じる部分。
・P079「お水取りは修二会とも称される」
お水取りが修二会と称されることはありません。
お水取りはあくまでも修二会の中の一行事です。その一行事に過ぎないお水取りが有名になったがために、本来は誤解なのですが、修二会全体をお水取りと称されるようになりました。よって「修二会はお水取りとも称される」ことはあっても、「お水取りは修二会とも称される」ことは断じてありません。そもそも修二会が行事全体を指す正式名称であり、それに対して「称す」は明らかに誤りです。
・P101「(奈良に対して)都市としての便利さでは京都にはるかに劣る」
何をもって都市としての便利さとしているのか、何を基準にはるかに劣るとしているのか、抽象的すぎて分かりません。私は大阪の人間でどちらへもよく行きますが、奈良と京都の間で、都市としての便利さに「はるかに」というほどの差異を感じることはありません。明確に「はるかに」という事実を示してください。
・P139「仏教は、新しい文化としてすぐに天皇や公家などの上層部を魅了し・・・」
物部氏と蘇我氏に代表される崇仏論争を見ても「すぐに」で無いのは明らか。もっとも著者のいう「すぐに」がどの程度を指すのかは知りませんが。
また「新しい文化として」というのも違うでしょう。著者自身が「国家の鎮護などには大いに役立っても」と述べられているように、今でいう先端科学技術として仏教が導入されたもので、現在から見れば文化の導入であっても、当時の人たちが「新しい文化として」という意識があったとは思えません。
・P209「亡くなった人間の霊を慰めるということ自体、神道の教えにもとづくものではなく、仏教の教えにもとづいている」
本来仏教は霊の存在を認めていない。よって「仏教の教えにもとづ」くことはありえない。仏教本来の教えにないにも関わらず、朝廷は怨霊を封じる先端科学技術として仏教を利用したためにそのようになったもの。慰霊というのはもともと世界各地、どの人類でも自然発生的に起こりうるものであり、それは日本でも同様。あえて言えば原始的な民間信仰であり、それが神道にも受け継がれていることはあっても、仏教には無い。朝廷の要請に応じる形で作られていったもの。
他にも気になる部分はあるのですが、特に疑問に思うものを取り上げました。
Posted by: 田中雄一 | June 09, 2012 04:49 PM