5月28日(月)広野真嗣『消された信仰』は宗教学の先輩宮崎賢太郎氏の見解を批判した興味深い本だった
小学館ノンフィクション大賞を受賞したという広野真嗣氏の『消された信仰ー「最後のかくれキリシタン」長崎・生月島の人々』が仮綴じ本で送られてきた。6月1日に発売になるらしい。
この本は、一方では、生月島のかくれキリシタンの現状について取材にもとづいて報告したものだが、その一方で、かくれキリシタンのあり方に対して批判的な研究者の見解に疑問を投げかけた、宗教学的にも興味深い考察になっている。
批判の対象になっているのは、私の宗教学研究室の先輩でずっと長崎純心大学で教えてきた宮崎賢太郎氏だ。宮崎氏からはこれも最近『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』が送られてきた。宮崎氏はカトリックの信者でもあるので、かくれキリシタンについては、その信仰のあり方を評価していない。これは昔からのことで、それで論争になったこともあった。本来かくれキリシタンは、明治になった時点でカトリックに復帰するべきだったのであり、それができないのは、信仰が変質してしまっているからだというのが、簡単に言えば、宮崎氏の論点だ。
この見方を広野氏は批判しているわけだが、一つ重要なことは、日本にキリスト教の信仰が伝えられた時、宣教師たちはどういう信仰を広めようとしたのかという点だ。現代は合理主義の時代で、とくにカトリックは第二バチカン公会議以降変わった。それまで信者には聖書を読ませなかったし、ミサはラテン語で意味が分からない。修道女も修道院のなかに閉じ込めたままだった。そこでも変わったのだから、16世紀のカトリックの信仰がいかなるものだったのか、それを本来なら検証する必要がある。だが、宮崎氏もそれは行っていない。
当時、キリスト教の信仰を伝えようにも、翻訳の問題があり、仏教用語に頼らざるを得なかった。だから、天国は「後生」と呼ばれていたようだ。少なくとも現代のようなカトリックの信仰が伝えられたわけではない。遠藤周作の小説もそうだが、現代のような信仰が伝えられたことが前提になり、そこで根本的に間違えている。
宮崎氏は、かくれキリシタンは、カトリックに改宗するとたたりが起こると恐れているとしている。そこで非合理だというわけだ。しかし、これは宮崎氏本人から直接聞いたことだが、長崎で水害が起こったとき、水が家の近くまで来たのに、自分の家がそれをまぬかれたのは、信仰によるものだと言っていた。広野氏は、これをどう思うだろうか。
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