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昨日は銀座のサウンドクリエイトで、「オーディオ哲学宗教談義」シーズン3の第1回目を行った。
今回の全体のテーマは、「私たちは何を聞いてきたのか」。いつもは黒崎さんからの発題ではじまったので、今回は私にお鉢が回ってきた。昨日は、「アメリカ」ということがテーマになったので、ダパンプの「USA」がなぜヒットしたのかを原曲のイタリアのディスコ音楽と比較し、こぶしをきかせるということの重要性から分析してみた。そこから、ブルースをめざしたエリック・クラプトンがどうしてめざしていることができないのかをアメリカとイギリスの宗教的な環境の違いから考え、アメリカにおいて音楽的な才能が教会のゴスペルに根差していることを確認し、チック・コリアとキース・ジャレットの違い、さらには、レッドツエッペリンのロックがクラシック的かにも言及した。
黒崎さんからは、覇権国家との関連を指摘されたが、この点は重要で、これからじっくりと考えてみたいテーマだと感じた。なぜか西高の一年後輩が、それぞれ別の経緯で来場し、再会したという珍しい出来事も起こった。
次の回では、スピーカーの鳴らし方でいかに音が変わるかを検証しようと思っている。
昨日の午後は、国立劇場の小劇場の方へ。民俗芸能の公演を見るため。これも勉強。
最初の方の田峯の方の田楽は、基本、田んぼつくりの過程をたどる、非常に素朴なもの。やっている方も、リラックスしているのか、適当。終わってからカメラマンの二階堂さんに聞いたが、稽古のときと違うことをやるので、撮りずらいとのこと。
次の西浦の田楽の方は、説明もなく、演目を続けていくところに示されているように、十分芸能になっていた。両者地域はそれほど離れていないのに、ずいぶんと取り組み方が違うようだ。
場内に3月の小劇場での歌舞伎公演のチラシがはってあった。菊之助が「関扉」の黒主をやるとのこと。意外な配役だが、どうなんだろう?
現在の仕事は、『神社から読み解く日本史』という本の原稿を書いている。これは、写真や図がたくさん入った本で、神社を中心にとりあげながら、日本人の宗教の歴史を追ったもの。『教養としての仏教』という本も、半分書いたところで中断しているが、神社の方が終わったら、あとの半分を書くつもり。
昨日は、そうした仕事の合間をぬって、サウンドクリエイトに行く。日曜日の「オーディオ哲学宗教談義」のために、装置の確認と取り上げる音源について打ち合わせをした。予定していたスピーカーが、事情があって使えなさそうなので、変更したりもした。
経堂に戻ってからは、急ぎの書類の発送があり、コンビニと郵便局を行ったり来たり。なんとか送れた。そのあとは、日本評論社の編集者に『教養としての宗教学』の再校ゲラを渡し、魚粋で飲む。サッカーの試合があるということで、後半はあの店としては珍しく客が少なかった。
最近の歌舞伎の舞台で印象に残っているものがいくつかある。一つは、京都南座の再開場の際に幸四郎が演じた「勧進帳」だ。これまで多くの「勧進帳」を見たが、これが一番よかった。とくに、終わりの延年の舞のところで、最近はほとんどやらない「滝流し」をやったことが大きい。これで舞台が盛り上がった。幸四郎の弁慶は3度目だが、大きく進歩している。酒をふるまわれて、笑うところ、これまで不自然なものに思えていたが、ちゃんとその前に番卒とのやり取りを入れ、笑った理由がわかるようになっていた。さらに、最後、客席に向かってお辞儀をするところも、そうならないようにしたことで、その意味がはっきりした。観客に礼をしているわけではないのだ。
もう一つは、今月の新橋演舞場での海老蔵の「俊寛」だ。これは、海老蔵の実際の人生と、つまりは妻を失ったことと重なっているので、そのことが大きく影響しているが、俊寛が島に残った理由が相当に鮮明になった。これの前、国立で芝翫のも満たし、秀山祭では吉右衛門のものも見た。芝翫はありがちな感じで終わったが、吉右衛門のは、本人も言っているように、弘誓の船が来るのを幻視したかのように演じられていて、それが強く印象に残った。
さらに、一番衝撃だったのが、今月歌舞伎座の白鸚の「一條大蔵譚」。こんなに立派な大蔵卿は見たことがなかったし、これまでのこの戯曲のとらえ方とは根本が違うように思えた。ふつうは、作り阿呆と本心との対比というところに力点がおかれ、そこのおかしさを表現することに力が入っているが、白鸚は、そこにはあまりこだわらず、それはあくまで設定ということにして、むしろ大蔵卿の内面を掘り下げていったように見えた。
これはまだよくわからないのだが、勘解由の首を切ったところ、その首を包むための風呂敷を広げて、観客にそれを見せるということをやっていたが、なぜかこれが強く印象に残った。丁寧に演じているということでもあるが、それによって、ドラマのリアリティーが格段に増したようにも思えた。
幸四郎、海老蔵、白鸚は、高麗屋と成田屋ということになるが、海老蔵の祖父11代目團十郎の父は7代目幸四郎。3人はすべてその血を受け継いでいるということになる。こうした一連の芝居は、あるいは高麗屋による革新、革命なのではないか。そんな気がしている。
娘と歌舞伎座昼の部に行ってきた。七之助、幸四郎、芝翫が、この順で、娘のごひいき。
最初の演目は、「舌出三番叟」だが、最後まで舌が出なかった。どうも、そういう話ではじまったのに、途中、何かの都合で、あるいは芝翫の意思で、舌を出さないことになってしまったようだ。これだけずれているのも珍しい。
次は、福助はじめ、成駒屋・中村屋親戚一同の「吉例寿曽我」。珍しい演目だが、福助のからだの調子で選ばれた演目だろう。ただ、復活の舞台では観客からあつい拍手が寄せられていたが、二度目となると、厳しい。今後はどうするのだろうか。
三つめは、「吉田屋」。幸四郎がニンに合っているせいか、いかにもいいところのボンボンという風を見せているが、七之助の方が、それに見合った傾城としての格が欠けているようにも思えた。
最後は、「一條大蔵卿」。白鸚が実に久しぶりに演じたもの。あまりやりそうではない役だ。これまでずいぶんとこの演目を見てきたが、こんな大蔵卿ははじめて。作り阿呆というもののとらえかたからして違っていて、阿呆らしさを出すことにはあまり力を入れず、それはあくまで看板というとらえ方をしているように見えた。「吃又」で、わざとらしくどもらないようなやり方ということか。後半、正体を明かしてからは実に立派。今までの大蔵卿のなかで、格式では一番。それが感動的。いつも白鸚には辛口の渡辺保先生が今回は褒めているのもよくわかる。
終わってから、娘と銀ブラ。
今日は阪神淡路大震災から24年目になる。もうすぐ四半世紀が経つかと思うと、時間の経過は実に早いと感じられる。その年の3月に神戸を訪れ、町がすべて廃墟になっている光景を見たことは忘れられない。
昨日は、午前中仕事をしたあと、要町へ。えらてん氏が編集者と打ち合わせをするのでということでエデンまで行ったのだが、だれもいない。おかしいと思って連絡すると、最近要町に移ってきたベストセラーズの会社で打ち合わせをしているとのこと。あわててそちらへ。えらてんチャンネルの書籍化などを打ち合わせる。
帰り新宿に寄り、小田急で帰ろうとすると、「ハレクリシュナ、ハレ、ハーレ」の声が聞こえてきた。
昔は原宿の駅によくいたハレクリシュナの人間たちだ。写真を撮ったら、パンフレットを渡された。
昨日から朝日カルチャーセンターの新宿教室で、「二十二社」の講座がはじまった。NHK文化センターのさいたま新都心教室でもやってきたテーマだが、それを踏まえ、さらに突っ込んだ話をしようと考えている。これは、3月まで続く。
担当者から聞いた話では、旅行社のなかに二十二社巡りのツアーを実施しているところがあるらしい。二十二社は関西ばかりだが、個々にかなり離れているので、一度には当然ながらまわれない。何回かに分けてツアーをするらしい。
神社というのは、寺院とは違い宗派のようなものがない。その点で、どこでまとまりをつけていくかが難しいが、二十二社を最初に持ってくると、そのなかに有力な神社が多く含まれることもあり、うまくいくような気がする。
そして、二十二社を探っていくと、神社の在り方や、それとの日本人のかかわり方が見えてくる。なかなかいいテーマではないだろうか。私もあと一か所、丹生川上神社に行って、本にしたいと思っている。
朝、皿を洗っていたら、妻から海老蔵が團十郎を襲名するということを告げられ、テレビを見ると、記者会見をやっていた。急なことで驚いた。
ただ、團十郎を2020年に襲名するという話は、ずいぶん前から伝えられていたことで、襲名自体は驚きではない。5月から3か月というのも、前回の團十郎襲名にならってのことだろう。
「白猿」というかつての團十郎の俳号をつけたところ、記者会見では説明がなかったようだが、推測はできる気がする。12代目が生きていたとしても、海老蔵が團十郎を襲名する話は出ていて、その際には12代目が白猿を襲名することになっていたのではないだろうか。白猿、團十郎、そして新之助という三代だ。
最近は、寿命も長くなり、歌舞伎役者も長く活躍できるようになってきた。そうなると、従来の襲名のやり方では、不都合な部分が出てくる。すでに、高麗屋は白鸚、幸四郎、染五郎で、澤瀉屋は猿翁、猿之助、團子(将来は亀治郎か)だ。
勸玄が新之助となると、和史が菊之助、左近が辰之助ということになっていくのだろう。ただ、辰之助の方は問題がないにしても、菊之助は今いるわけで、そうなると今の菊之助が菊五郎にならなければならない。となると、菊五郎はどうなるのか。梅幸という名前もあるが、新しい名前を襲名する可能性もある。
それにしても、襲名というシステムは、歌舞伎界を盛り上げるうえでよくできた仕組みだ。
昨日は午後、さいたまのNHK文化センターで講義。二二社のうち下八社について述べたが、最近行った中七社にもjふれた。
そこから銀座へ出て、時間があったのでサウンドクリエイトにより、新年のあいさつ。シーズン3の打ち合わせを若干。
銀座へ出た主な目的は、歌舞伎座夜の部を観るため。
演目は「絵本太功記」、「勢獅子」、「松竹梅湯島掛額」。
最初の「絵本太功記」は、吉右衛門が立派だが、個人的にこの話、断片的すぎて、いつもあまり面白いとは感じられない。真柴久吉がなぜ風呂を沸かして、自分で先に入るのかがわからない。誤って母親を殺すというのも、どうなんだろうか。
次の「勢獅子」は、ベテランたちはさしたるものではなく、若手の勢いが目立った。
最後の「松竹梅」は、すでにNHKのテレビ中継で見たが、あまり変わっていなかった。二つの話を無理にくっつけただけで、この作品どうなのだろうか。猿之助も、なんだかさほどやる気には思えなかった。
七之助の人形ぶりについては、渡辺保先生が劇評で書いているし、そこで書かれていることは、先日直接うかがった。人形になろうとすると、人間になり、人間になろうとすると人形になる。いろいろと難しいところだ。
昨日は、新橋演舞場の夜の部へ行った。今回、昼の部は11時半からはじまり、夜の部は4時からはじまるという変則の形。昼の部は、正味2時間半しかないのに、夜の部は4時間ある。なんだか、不公平な感じもする。昼の部は、今あまり見たいと思わない「極付幡随長兵衛」なので、見ないことにしている。そのとき苦手な演目というものもある。
正月の新橋は海老蔵ワンマンショー的なところが強い。成田屋の興行ともいえる。最初の「鳴神」は、児太郎がリードする展開。上人を誘惑する悪女的なところは、この人うまい。右團次の方は、それに押され気味だが、最後の立ち回りで挽回の気配。
次の「牡丹花11代」は、11代目団十郎、要は「海老様」生誕110年を祝う舞踊だが、海老蔵の二人の子供がかわいいという、ただそれだけのもの。それで観客は満足。
次の「俊寛」は、海老蔵初役。イメージとはかなり違う役だが、堅実に演じている。最後の船を見送る場面、座り込んで彼方をじっと見つめるところは、妻を殺された瞬間の悲しみと、海老蔵本人の悲しみが重なり、後になるほどこころにしみてくる。それを意図しての演目なのだろうが、演じる本人はそこらあたりどのように感じているのだろうか。
最後は、海老蔵の課題曲である「鏡獅子」。これまで何度も演じ、何度も見てきたが、今回はだいぶ良くなった。海老蔵は、9代目の團十郎を意識して、これに挑んでいるのだろうが、女で踊る不自然さがかなりなくなっている。これなら「京鹿子娘道成寺」を踊ってほしい。そんな気がした。
今年の正月三が日は晴天が続き、気の地の良い年明けとなった。まだ初もうでに行っていなかったので、近くの北沢八幡宮へ出かけた。
3日の午後なのに、けっこうな混雑。もう少し前の時間はすいていたらしい。並んでいた人の話では、駅伝が終わったからとのこと。さもありなん。
年末に、神社の参拝の仕方についてツイートしたらかなり反響があった。去年も同じ趣旨のツイートをして、やはり反響があった。今年は、にこにこニュースにまで取り上げられている。
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